酔い朱花







麒麟―――――。

天が王に遣わした道標のようなものか、と陽子は思った。延曰く、麒麟は政務に対してはほとんど役に立たない生き物らしいが。それでも一国の主を選定するなどという、巨大な使命は、国の標、ひいては王の標のよう。 麒麟無くして国は成り立たず、―――正直言えば、何度もすげ替えきく王よりも麒麟のほうが価値は高い。一般的な事実だが、なのに麒麟は王の下僕だ。
世に十二しか存在せぬ麒麟。最も尊い神獣。ならば、それが最上の地位を保てばいいのではないか。下僕になる必要がどこにある?貴高、神聖な生き物を侍らすことで、王の威厳を強固なものにせよ、との天の思し召しなのやもしれないが、―――。

――ほんとうに、わからないことだらけだ、この世界は。

闘いの疲労感になだれ込みそうになる躯を、なんとか震い立たせ、慶国の宝刀を振るい続けた。昔の己では考えられないほどの所業を成す。
激しく怒ったことすらなかった。全てのものに脅えて生きてきた。
それがどうか、―――怒声を腹から出し、兵を率いて戦地に赴く。殺人を簡単にこなし、だが、ここではそれが普通のことだ。

――最近は、この世界に、慣れてきている。



「陽子、少し話をしないか」

延王―尚隆はその夜、陽子を私室に来るよう促した。
延国の助力によって舒栄の乱を平定した後、すぐに景王と延王率いる軍勢は延のお膝元に戻った。しばらくの滞在を延王より快く頂いた慶東国国主―陽子は、雲海の絶景がよく観える堂室を与えられていた。その階の近くに延の私室もあり、延麒と景麒の部屋もそれぞれあった。

酒を飲み、上機嫌な延王を前にして恐縮しつつも、陽子は卓を挟んだ向かい側にきちんと座っていた。 延王君には世話になりっぱなしだ、と陽子は贅沢な長椅子にゆるりと背を預ける。先ほど、彼の正室の客室へ呼び出され、酒に誘われたが、どうも大国の王と飲みかわすなど気後れして(というか酒も飲めないが)丁重に断った。僅かに眉を寄せて残念だと零していたが、とてもそうは見えないにやついた貌で美丈夫は微笑う。

「飲めぬ女王に酒を勧めたとあっては、俺の立場もないからな」
いや、元々玄英宮では王の威厳もなにもあったもんじゃないぜ、との声はここには居ない彼の半身のものだが――。
平凡な市民だった陽子にしてみれば驚くほどの広さと豪華さのそこは、しかし、陽子があてがわれた客間よりもかなり質素だった。盆栽のような鉢や刀飾りの様子が、どこか和国じみていて、この男も胎果だということを確認する。
「延王はお疲れではないのですか」
陽子は聞く。いかに体格の良い男だとしても、彼が寝る間も惜しんで尽力してくれたことを知っている。
「いや、多少は酔いが回るのが速い程度だ。なに、心配か?」
「はい、延王になにかあったら、私は困ります」
狐に摘まれたような顔をして尚隆は顔を上げたが、すぐにふ、と笑う。
「気にしなくてもいい。俺がやりはじめたことだ。どちらかというと、陽子が慶を見捨てないでくれたことの方が、嬉しいが。まぁ、少しだけ飲め」
陽子は微苦笑して、銀の光沢の杯を手に取った。蜜色の液体が月光に煌めく。

―――結局、景麒を助けて、王となる決意をした。

景麒の誓約を再びうけ、己が景王だと、兵士に啖呵を切った。もう引き返せない。―――今まで必死に闘って、引き返そうとも思わなかったが。

「王宮に戻ったらまず何をするべきか、わかるか?」
杯を見つめていた翡翠の瞳が漆黒の瞳と絡む。尚隆の有無をいわせぬ精悍な顔立ちが陽子に向けられていて、軽く怯む。
「…そうですね、まずは自分が王なのだと、実感できていないので、それをすることから始めます」
本当に己がこの男と同列の立場なのかと、胡乱に思う。この疑わしさはきっと永遠と解決はせず、迷走するのだろうとも。
「随分と慎重なことだな。いいことだ」
延は頷く。薄く重ねられた私服を無遠慮に腕まくり、延は酒を仰ぐ。仕草一つ一つ、瞳の凄みが彼の年月を感じさせる。
「延王は、まず、何をしましたか?」
「俺か、だいたい同じようなことだ。俺はしばらく、何も無い国を観ていたな。本当に何も無かったから、いっそ好きなようにやりやすいだろうと、…六太と共にな。しばらくはずっとそうしていた」
「観ていた…」
陽子の脳裏に面前の男がその容貌のまま、荒れた地に立って、じっとしているのを想像した。小さな麒麟を伴って。
五百年前、彼は何を思ったのだろうか。
「そう焦ることもないということだ。そのために時間がある」
「………どうでしょうか」
「なにか心配でもあるのか? ああ、景麒か」
陽子は少しだけ苦笑した。なんでもわかってしまうのだ、この人は。
たしかに陽子は己が慶の地を高台から、長い間眺めている姿を想像できる。だが、隣に麒麟の姿はない。慶の麒麟は陽子に時間という猶予を与えない。
「態度はまったく変わらないのですけど、どうにも早く帰りたいみたいで…」
冷え冷えとした薄紫の双眸が、陽子を焦りに追い込む。民をこれ以上苦しめるなと、叱責されている気さえする。無言の圧巻に耐えきれず、陽子は景麒を苦手としていた。だからといって疎ましく思うわけではない。誰に対しても、彼がそうであることを知っているから。
「麒麟はそういうものだ。自国が心配なんだろう。一刻も早く王を玉座に据えたいと切望する生き物だからな、本能だ」
「でも、延麒は、延王が国を眺めていた横にいたんですよね。何も、そう、早く落ち着けなどとは言われなかったんですか」
「あいつは胎果だし、景麒とはまた違う。景麒がどんな麒麟かは詳しくは知らないが、どうも堅い。しかも先の王で失敗を犯した直後だ。これ以上失敗は許されないと思っているだろうし、現実問題、あまり猶予はない」
「そんなに酷いのか…」
延は首を振る。
「だから焦ることはない」
「確かに景麒は急くだろうが、それは国を思ってのことでもあり、ひいては王の命を案じてのことでもある」
「…そうは見えないが…」
「麒麟は王のためにいるものだ。決して麒麟のために王がいるわけではない」 陽子は顔を歪めた。目聡く気づいた延はそれを見逃さない。陽子、と静かに呼ぶが暫く答えはなく、思案している陽子を尚隆はじっと待つ。
「…本当でしょうか。あなたは王は、丁の良い下男と仰った」
「確かにな」
「麒麟が政を行えない生き物なのはわかりました。けれど、王の下僕である意味がわからない。下僕とは感じのいいものじゃない。たしかに責任を負う変わりに、与えられた王の特権のように思いますが……そもそも、何度も選べる王よりも、稀有の麒麟の方が価値がある」
延は黙って聞いている。
「こちらに来て、妖魔が現れたり、半獣というものがいたり、祖国では考えられないような不思議なことばかりがありました。麒麟もその一つです。現実なんだからとっくに理解してはいるんですけど、どうも不思議でならない。景麒をみていると時々ふと、麒麟というものにすごく困惑を覚えます。やはりヒトではないのだと。延麒や半獣の楽俊に対してはそうは思わないけれど。やはり神獣だから、か」
「孤高の獣らしいぞ、あれは。もちろん六太は何を考えているのかわかりやすいところもあるが、やはり麒麟だ。かといって難しくもない。奴らの頭の中は常に国と民と王しかないそう思えば困ることもなかろう」
「どうして麒麟がいるのでしょう。仕組みはわかりましたが、」 天意を賜るならばもっと合理的な方法があるはずだ。確かに麒麟が王の心の支えになるのだろうし、慈悲を持つ麒麟が王の行いを制することもあるだろう。だが、陽子にはまだ必要性がわからない。陽子にとって、景麒は逆に弱点とも成り得るからだ。

――景麒が死ねば、己も死ぬ。そして国も荒れる。ならば民を救うためには…

「麒麟は大事なものだ。国を護るように、麒麟も護ってやりたくなる。必然だ」
は、として陽子は切れ長の双眸を瞬かせる。
延もやはり、同じ思いを持つ者だったことに安堵する。麒麟を加護するというものがそのまま民への加護と繋がるにしろ、そうでないにしろ、陽子は漠然とそれをしていた。
「たしかに、護らなければ、とは思います」
無我夢中で景麒を救い出したあの時の感情のままに。今もそれがくすぶっている時がある。
「わたしはまだこの世界に慣れていない。当たり前ですが、気づくことがままある。景麒に対する不信感が無くなることは、この世
界の不信がなくなることと同じような気がします。それまで慣れるように努力したいと思います」
「…六太が言っていた。なるべく景麒には優しくしてやれとな。あれは相当の過去を背負っている。もともと無表情だったらしいが、
以前一度会ったときはあれほど冷めた顔はしていなかった。人がかわったようだ。―――麒麟とは哀れなものなのだ」
陽子はそれを知っている。水愚刀が見せた予王の末路を。痛んだ貌の景麒を。途切れ途切れではあるが、王と麒麟の関係を。未だぼんやりとした幻しか見せないが、延の話からして、大体の経過は想像に足る。―――それを水愚刀に見せられるのは苦痛だったが、その後、景麒が、王を失い身を裂くような痛みに耐えつつも、新たな使命を貫いことの方が、壮絶にむごいと思った、―――。 だから陽子は景麒を助けた。
「景麒を助けなければと思って、乱を鎮めました。その時は確かに護ろうと思った。麒麟がいなくなれば国は絶望的ですから。確かに、麒麟を庇護するのは必然です」
だから惑う。
「水愚刀が幻を見せます。まだ使いこなせないので…」
「当たり前だ。長年その宝刀と連れ添った達王ですらしばらくは惑わされていたと聞く。まして鞘が死んだ………予王をみたか?」
延の洞察眼にすでに驚きはない。隠し通すこともできない。陽子は毅然とした声で「はい」と相づちを打つ。

剣に侵された時、陽子の心に覗く幻が、今鮮明に蘇った。景麒を心の底から愛し抜いた先代の切実な思い。麒麟は人ではない。人の持つ愛欲に耐えられず、答えられず目を逸らした麒麟。女を痛めつけ、国から追放すると楽しげに微笑う、狂気に満ちた瞳の、女。

陽子は不安を覚える。何故今この光景を、刀の妖は己に見せつけるのか。意味を成さない幻もいくつか観ることがあったが、それらとは漠然と違う類の幻だった。

「私が予王のようにならないともかぎらない。剣もそれを危惧しているように思われます。それはそのまま私の心ですから」

――もしかしたら、己も心底で彼女と同じ想いを抱いているからではないか。
いや、違うと陽子は思う。陽子はまだそれといった感情を知らない。抱いたことがない。違うともわかる。だが恐れてもいる。それと似た感情を抱く可能性がある。

――すでに何らかの感情を持っている


延はこころもち優しく言う。
「幻を見るのは、剣が、陽子の王座に対する恐れを読みとっているだけだろう。剣が観た過去の過ちを、陽子が観る。見せられているに過ぎない。過去の他人の過ちを、己の過ちであったかのように置き換えようとする。そうやって主人を惑わす。景麒と予王の一件に関してではなく、これから待ち受けるだろう民の苦を、陽子が恐れることがそれをおこさせる」
「そうでしょうか」と陽子は背筋を伸ばす。聞くのは簡単だが受け入れるのは難しい。
陽子が今抱き掛けている感情はまさに予王とは別物だとはわかるのだが。

「麒麟を護りたいと思うことは予王の抱いた感情とは似ていてまったく違うものだ……それとも景麒に対してなにか思うところでも?」
納得して陽子は苦笑する。ならば違う。そこまで景麒を信頼しているとも言い難いからだ。だが護る価値はあるとも思う。麒麟という命の綱でかろうじて生きている、慶国の民を救いたいと思うから。
「双方のことを、哀れだと思いました」
「わかっているならなぜ国を滅ぼすと考える。お前はそんな愚は侵さない。お前は己を律する力を持つ。そうして、麒麟と王の正しき有るべき姿を理解している」
「未来はだれにも、わからない。私は愚かだから」
「なれば、突き放せば良い。だがそれでは麒麟が哀れだろう。麒麟は王に疎まれるのが大なり小なり苦痛で、王と麒麟の仲が悪ければ国が傾く原因ともなることがある。突き放すにしろ、我が物にするにしろ、どっちとも苦しいに違いない――ならば、我が物にすればいい。そのほうが苦しくなかろうお互いにな」
「それは、いまいち違うと思いますが…」

そうではなくて、どうすればそういう迷いからお互いが解き放たれるのか、聞きたかったのだ。
陽子は景麒の気持ちを測り、今まで触れることはなかったが、数日過ごした中で気づいたことがある。景麒もやはり、女王を恐れている。
景麒が普段よそよそしいのも、用件以外は会話をしようとしないのも、若干、避けられていることも。冷たい能面顔からは感情を読みとることなど不可能で、けれど仕草の中に、本当に些細なことではあるが、拒絶や遠慮、恐怖がある。景麒自身はそれを隠しているつもりかもしれないが、それが現実だった。
確かに、国の民が飢えることなく生活できるようにと、王になった。親友が暮らせる国をつくりたいと思った。それ故、玉座と尊い神獣を天から賜った。だが、その神獣に警戒されて信頼関係すら無い主従というのは酷く寒い気がする。

「どうして私が予王と同じことをしないといえるのでしょうか」
確信を持って、「お前は愚を侵さない」と返答した延に陽子は、期待を込めて、答をこう。
「お前はあれを神聖な物と言った。予王はそうではなかったのだろう。男とみた。たしかに景麒は美しいし、女なら惹かれるものもあるだろう。予王を気の毒に思うが、同情する余地はない。惹かれるだけなら無害なわけだし」
あまりのさっぱりとしたいい方に、陽子は、はぁ…、と気の抜けた声を出す。
「王と宰輔の仲が良ければこれ以上のことはなし、夫婦関係の国も多いわけではないが、ある。要は道を外さなければ問題はなかった。王が麒麟を我が物にしたって、それで王と麒麟が幸せであるなら一切問題はなかった。だが、慶は違った」
「それほど先の王は苦しまれた…」
「むしろ景麒がな。景麒の苦渋を量ってやれ。そうしたら、お前は絶対に予王のようにはなるまい。逆に言えば、あれは麒麟だということを忘れなければ、何をしたっていい。こきつかったって、手強い官の生け贄にしたっていい。下僕だからな。」
「すごい言い分だ」
「おまえのところは男女で羨ましいことだ」
「悪酔いしておられる」
陽子はぷ、と吹き出した。
「王は麒麟より上だ。これを忘れるな。いかに神獣だといっても、神の僕なのだから。ま、第一、こんないい男が目の前にいるのだからな、目もそらせまい」
「は?」
「女王陛下はこの手の話は苦手とみえる……いや、楽俊がいるな」
「楽俊が何か?」
「陽子は楽俊が好きであろう」
何のことかと呆然とした後、目を白黒させて陽子は真っ赤になった。
「!?違います!!楽俊は友達です」
延のにやついた顔に陽子は苛立ちを沸かせつつも、尊敬する男の胸倉を掴むわけにもいかず、握り拳を固める。
「ネズミの時は子どもかと思っていたが、人型になればなかなかの好青年だったなぁ。なかなか抜け目無い男とみた。俺は陽子には似合いだと思うし、楽俊もまんざらでもなさそうだったし」
「ご冗談を…たしかに楽俊はかけがえのない人ですけど、彼は好きとかそういうのではなく……その、向こうに対しても迷惑だと…」
「まったく、お前は少し欲を持ったらどうだ」
豪快に笑い出した延に陽子もほとほと疲れが見えてきた。真剣な話をしていたと思えば、どうしてこうからかわれるはめになっているのだろうか。
「延王はそのような方はいらっしゃる?」
「話を逸らそうとしても無駄だ。五百年早いな。まぁいい、百歩譲って友人関係だとしても、もう少し慎みをもったほうがいいぞ。俺がいうのもなんだがな」
はい…と脱力して陽子は親友のネズミの姿を思う。今は別室にいるだろうが、きっと玄英宮の珍しい書物を読み耽っていることだろう。今会いに行っても相手にされそうにない。
「楽俊は、当初、彼に酷く当たった愚かな私を、じっと待ってくれていた。彼にも下心があったのかもしれない。けれど、他人(ひと)との繋がりだけが、人を救うんだと教えれくれた。人が寄り添う意味を教えられた気がする。彼は私の先生のようなものだ。彼を見習い、漠然とですが、そういった暖かみが灯る国が欲しいと、そう思います」
「まず民の心をどうこうしようとは、景王は飛び抜けてらっしゃる」
「なんとでも。それほど上手く事が運ぶなど、思ってませんから」
皮肉めいた口調に少しかちんときたが陽子は流し目を送る。 それをしっかりと受け止め、無骨な大きい掌を肩に垂らした朱色のしなやかな髪に添えてゆっくりと撫でる。陽子は驚いて身を引きかけるが、親御がするように優しく頭を撫でているだけのそれに、どこか心地よさを感じながら目を閉じた。―――延は酔っているのだろう。陽子も少し酔っていた。
「お前は、時々麒麟のようだな」
「え?」
翡翠の瞳が現れ、睫がしばたく。延にも其れが見えた。
「わからぬか?真性な愛は恐れを伴わないらしい。無償の愛というものだ」
「は、はぁ…」
「それを忘れなければ、お前は民を守れよう」

息の掛かるほど近づく整った顔に、頓着しない陽子がやっと居心地悪さを感じ始めた時、延の片方の手が陽子の肩を抱き寄せた。
「…っ」
顔を胸板に押しつけられ、気が動転しかけたが、その手はさらに優しく背中を撫で、緩やかに何度も陽子の髪を梳いた。あ、と思ったときはもう遅く、陽子は目頭が強く痛むのを感じた。

人を斬り捨て、故郷を捨て、―――いままで己を護ってきた鉄壁すら捨てて走る。この先、何も持たず、己の麒麟と慶に赴く。何があるのかわからない、―――未知という恐怖を背負って。

―――まだ、泣くわけにはいかない。

この世は奇怪。
麒麟という神獣、それに選ばれる王、それなしでは生きれぬ民。この世の仕組みはすべての要因に影響し。―――その規律や天意には逆らえない。だから、景麒は己を否応にも王としなければならなかった。―――民のため、天意のため、―――。
――――だが、陽子は天帝を知らない。天意も結局は、単なる、陽子自身を縛るもの。陽子が命を投げ出せば、国は堕ち、荒れる。道を誤れば、死が民に迫る。もともと幾本かあった陽子の歩む道が、天意によって一本に絞られた。しかもその道は茨道の上をゆく道ですらない荒野。―――それでも引き返せない、―――。

―――これが私を縛る以外の何だ。

一度は死んでいた命、惜しくはないと思いながらもどこかで、苦しい。
予想もできない重圧に潰され、目の前に絶望を突き付けられ、死を望む時が来るだろう。一年先か、百年先か。

だが、まだその時ではない。―――己のために泣くのはまだ先で。やるべき事をやるまでは逃げてはならぬ。そういう道を、天から与えられたのではなく、―――自身が選んだのだから。
天帝が用意した道を歩むつもりはない。己が王座につくと決意したのは、己自身が見いだした道、

―――私の決断だ
―――これから私が歩む道は、私だけの道だ。



「これから難事なことだろうが、気張ることだ」
頭の上から低く澄んだ声がかかり、陽子は耐えた涙が再び溢れるのを感じたが、唇を噛み耐えた。緩く掠れた声で「はい」と従順に呟けば、頭上の黒髪の男が苦笑する気配がした。
「状況は予王の時より悪い。だが、忘れるな。お前がすべきことをな。そして焦るなよ」
「はい……感謝します。延王」

民を守れるか。麒麟を守れるか。
恐れは尽きない。
だが、焦らず何らかをしていけばいい。
そうしたら慶の民は自ずと王に答えてくれるだろうか。
景麒は信頼をくれるだろうか。

―――――私が欲しかった答えは、      

            答えは、そういうことだった。




疲労で寝入った小さな躯の少女を腕の中に納めて、尚隆はずっとそのしなやかに美しい紅髪を梳いている。深く眠り込んだ陽子の手をとる。小さな掌にいくつもある肉刺は、血の滲む一歩手前だった。仙であるからすぐに治る、とはいえよく頑張ってきたとも思う。
――だが、すべては始まったばかり。

「主上…」

扉の側に背の高い麒麟が立っていた。無表情の貌からは何事を思うのかは一切わからない。膝裏までとどくほどの淡金の髪が月の色にも似ていた。
色の薄い肌は儚い印象を与え、人間味を失せさせる。小さく、形の良い口を開くが、すぐに閉じた。
「延王の私室によく入れたな。衛兵に留められなかったか?」
いえ、と景麒は呟く。
「主上がこちらにおいでになったと聞きましたので………通させていただきました」
「そうか」
景麒は延に少しだけ頭を下げる。
「公式に御礼を申し上げましたが、このたびのこと深く感謝しております。延王におかれましては、今度とも主上に深い御友好を賜ることをお願い申し上げます」
そういって再び頭を上げた景麒の顔は先ほどとなんら代わりはなく、彼を知らない者から観れば、一国の王を見下すごとき冷めた視線だった。だが、これが景麒の素顔でもある。
「…ああ、わかっている。ここまで世話を焼いたんだ。復興までの手助けなら少しはできる。ただ、俺は陽子を見込んで力を貸したつもりだ。こいつでなければここまでしない。助力をしてやるが、景麒、――――――俺を失望させるな」
強い覇気に景麒の愁眉が僅かに動く。
「…景麒、いつからいた?」
尚隆は髪を梳く手を留めることなく、陽子の眠りを刺激しない程度に言う。僅かに間をおいて、景麒は淡々とした冷たくも思える声音で答えた。
「つい先ほど…」
「ほぉ、どこまで聞いたのか」
初めて苦く顔を歪めた景麒に延は口角を上げて人の悪い微笑みをつくる。
「はじめから、聞いていたのだろう?」
「……………………申し訳御座いません………」
少しだけ困った顔をした麒麟に、気をよくして尚隆は続ける。陽子の寝息を確認しながら。
「ならばわかっただろう。陽子は予王のようにはなるまい。少なくとも、その手の心配をしていたのなら、それは取り越し苦労だったな」
「延帝……」
「わかったら、少しでも陽子の力になれるよう仲良くなれ。陽子には言わなかったが、俺は王になって初めてやったことは、麒麟と仲良くなること、これだ」
景麒は憮然とした顔で延を睨め付ける。余計なお世話だとでもいいたいのだろう。
「ということで、俺はもう寝るからおまえたちも客室へ戻るがいい。陽子もここのところ戦疲れで躯が痛いだろう、牀榻で眠らせてやりたい。俺は薬湯を用意させる」
立ち上がって横抱きにした陽子を軽々と抱え上げると、景麒の腕にそっと渡す。軽く目を見開いて戸惑う景麒に陽子をまかせ、延は景麒を私室から追いはらった。
景麒は腕に抱いた主を見る。血の臭いはもうしないが、僅かに怨嗟が取り巻いているその身体は酷く軽かった。景麒は何の感情も見せない顔で、主を抱いたまま客房へと戻っていった。












2005/5/10
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送