朝焼の時









――金波宮。その頃、朝廷の紛糾により誰もが混乱していた。

「主上はどうされた。 まさかの麦州候を恐れて蓬莱にお帰りになられたのではないか」
取り乱して怒声を上げる官僚に顔を顰めながら景麒は大きな溜息をつく。
「主上は延にて政を学んでおられる。すぐにお戻りになられるゆえ心配なされるな」
「しかし……信じられませぬな」
「もしや政治が自分の思い通りになられぬと、隣国の王に泣きついてしまわれたのではないか。もしそうならば、延から優秀な官僚を招こうとしておられるのやも…」
ざわ、と蒼い顔をした諸官達は騒ぎ出す。陰口程度で家出をされたのではな…今度の主上も期待はできぬ。主上が居ない今、国はどうなってしまうのだ?
「延なしでは何もできないのか、女王陛下は」官僚の不満は広がり、勢力争いも速度を増していた。



こちらの世界のことを学ぶ時間が欲しい、そう麒麟を説得し、訴えた。このままでは昔の己に逆戻りしてしまう、そんな緊迫した不甲斐なさに後押しされて金波宮を出た。
景麒は逗留先を自分に手配させるという条件をつけて、陽子のその願いを聞き入れた。陽子は里家の閭胥(ちょうろう)遠甫の元で学んでいた。知ることも多く、和州候の動きや悪評、気になる点も多かった。

―――ここにきて、なるほどやっと自分の調子が戻ってきた気がする。

宮に居たとしても、王だからといって手足も出ない。何もわからない。かといって麒麟が政に役に立つとも思えないから結局陽子自身がなんとかしなくてはいけない。やることが山積みだった。
同時に、今の慶国の原動である金波宮の構造があまりにも勢力争いに満ちていることも気になった。これでは、予王が政治に対して興味を持てなかったこともあっさり納得できる。唯一の半身は超堅物な性分で、口を開けばメモを取るな、威厳をもてと小言が耐えない。その峻厳な双眸は、怖い。どうしてその程度のことができないのだ、何度説明すればわかるのか、とうんざりした溜息とともに責めてくる。

正直、あの半身とは馬が合わないが、遠甫という先生に引き合わせてくれたのは景麒であるし―――遠甫の教えで、かなり肩の荷が下りた気がした、―――、文字を読めず、政治に疎いことは事実であるから、一方的に貶すことはできない。そして、彼も過去の失敗を恐れ、二度と国が傾くことがないよう躍起になっていることをわかっているから、仕方ないことだとも思う。 そもそも、麒麟の背には途方もない重圧がかかっている。国という名の。予王がそれを投げ出した後、景麒が一人それを背負いつづけなければならなかったことは、陽子にとって不憫に思われる。ここで陽子が逃げ出したら、―――逃げ出すつもりはないが、――
―景麒はまたも、一人で国を背負わなければならない。

―――王に見放された民も哀れだが、麒麟は増して哀れだ。 民を救いたい、無力ながらも、麒麟を救いたい―――だからこそ王となった。

だが、 今の己に国を背負うことができるのだろうか。疑問が拭えない。王といえども、玉座に居るだけが能の、官僚たちの操り人形でしかない、この己が。景麒の背負うものを請け負えるのだろうかと。
呀峰、昇紘の動向も気になるし、麦州候浩瀚のこともある。拓鋒での大男のこと、鈴、という娘のこともだ。
所詮ただの女子高生だった一般人、いきなり凄腕の政治家になれるはずもないのだ。どちらにしろ、金波宮には陽子の求める答えはない。ここで、少しずつこの手と水愚刀と、手助けをくれる使令とで一つずつ解読していくべきだろう。

―――その先に、答えがなかったとしても、それが私の限界だったということ、―――






「とんだお呼び立ての仕方だぞ」

陽子は里家から幾分か離れた栄可館という宿屋に呼び出されていた。白い布が鬣をすっぽり隠しているが、すらりとした背丈や気品、端麗さがそれでもにじみ出ている。陽子は下僕を見て溜息を吐いてから、「下僕宣言」を平気でしておいて意に介さず首を少し傾げる鈍感な景麒に呆れた。ここに半獣の友人がいたら、「おめぇも、人のことはいえねぇぞ」と突っ込まれただろうが、余談である。

「もう、いい……で何か用なのか?」
「御霊を頂きたく………」
「今はもってきていないが、書類を持って帰って、あとで班渠に届けさせる。――――それで尭天はどうだ」
陽子が里家での暮らしぶりや、ここに来て気付いたことなどを語ったあと、景麒は金波宮の内状況と陽子に対する官の反応を淡々と述べた。陽子の顔が苦笑を象るのを景麒は少しも表情を変えずに見ていた。やはり王への不満は沸騰している。
「主上が、――――思うようにならぬ政に業を煮やし、延王に請うて延から優秀な官僚を派遣させようとしていると…」
「なに?」
陽子は眉を歪めた。
「まさかとは思いますが……よもやそのような事をお考えではありませんね?」
ぴくりと肩を震わせて、陽子は景麒を見る。―――睨み付けるといったほうが正しい。鮮やかな翡翠の瞳は燃えるような業火を宿していた。勘気に触れたと悟った時にはもう遅く、景麒は慌てて視線を手元に落とす。
陽子は止めどない空虚と孤独が沸き上がるのを抑えて、思わず「お前だけは私を信じなければならないんだ」と己の心を吐露した。
陽子が王であるということを繋ぎ止める理由は、景麒しかいない。そして今、陽子の味方も景麒しかいない。判ってはいたことだが、半身にすら、信頼を得ていないことは酷く空しい。

景麒は居心地の悪さに顔を伏せていたままだったが、小さく「申し訳有りませんでした」と返答をくれた。




その後拓鋒と明郭へ行くという陽子に、景麒も同行することとなった。和州の明郭へは使令の背に乗り二日の旅だった。道中特に会話はなく、景麒は元来口を閉じているほうが落ち着く性だが、陽子は気まずい思いをしながらの旅だった。
茜色の空は次第に闇に溶けてきている。活気はないがそれなりの小店が道脇に並ぶ街に降り立った。使令を隠遁させ宿を探していた時に不穏な気配を察した班渠がごく小さく呼び掛ける。

――主上、騒ぎが、
班渠は北西を向く。陽子は僕に言う。
「まってろ」
「しかし、主上―――あまり危険なことは」
「わかっている。だが何かあった時お前がいるとこっちが心配で動けない。離れていろ」
布にきつく巻いた水愚刀を片手に陽子は現場へ脚を踏み出す。麒麟を何らかの騒ぎに巻き込むのは危険を帯びている。陽子はそれでも後を追おうとした景麒を視線で静止させた。
露店が少なくなった裏路地を辿ると奥まった場所に一人の少女が立っていた。取り囲む薄汚い若い男が数人で少女の手を引いている。
「何をしている」
なるだけ男の声に近いように低く呟けば、驚愕の貌で男たちが振り向く。刃物は所持していないようで、陽子の激しい威嚇に怯み後ずさる。
使令から降りたとたん、これだ。本当に治安が悪い。大抵雑魚程度の追い剥ぎなどだが、昔、巧国を旅した時よりも悪質な人間が多いような気がする。それだけ民の心が病んでいることを表している。
助けを求めて震える少女に目を向けて、再び男たちを睨め付ける。深く息を吸い込む。
「去れ、さもなくば、――――容赦はしない」
苛立ちを爛々とのせた翡翠の瞳が、一瞬のあと、禍々しく真っ赤に染まった。陽子の持つ白刃が朱色の空を吸い込むように煌めく。ざ、と風が底から舞い上がり、美麗な紅い髪を大気に散らした。妖を見たかのように脅えた相手は脚を空回りさせながら、逃げていった。
「―――――あ、ありがとうございます…」
「いや、―――」
泰然とした、端正な貌に苦笑をのせる。
少女は深々と頭を何度も下げて、顔を真っ赤にしながらゆるゆると立ち上がる。その手を取り、立ち上がるのを助けた陽子は、彼女の顔を見る。少し里家での友と似た雰囲気のある面立ちで、陽子がじっと見つめていると、少女は完全に赤面してしまった。
「どうしたの?」
「い、いえ、…あっ痛」
「さっきの揉み合いで脚を挫いたか。歩けそう?」
しゃがんで足首を観察すると、そこはふっくらと紅く腫れかかっている。捻挫だろうか、と陽子は自身の服の布を乱暴に千切って、細い足首に巻き、堅く固定させた。
「あの、――ほんとうにありがとうございます。なにか御礼を……あなたは?」
「わたしは旅の者だが…ここはいつもこんなに治安が悪いのか?」
「はい。あたしが悪かったんです。危ないって知ってるのに軽々しく外に出てしまって…里の外へおつかいに行っていて、遅くなって…これから帰らなければならなかったのですが…」
「そうか。―――もう夜も暮れるし、危ない。それにそんな脚じゃ歩けない。家まで送っていこう。ここから近いのか?」
「――主上」
陽子は高揚の無い声の主を見上げる。やや不機嫌な顔がそこにある。
「お怪我は?」
「ない、それより今からこの子を安全な場所まで送っていくからお前は先に宿を探しておいてくれないか。班渠の案内があれば一刻後には合流できる」
「しかし――」
困惑気味に柳眉を寄せる僕に、少女は慌てて言う。
「宿でしたら、今から行く市中にあたしの良く知る宿があります。よければ紹介させてください。丁度わたしの家もその近くですから」


ありがとうございました、と丁寧に礼をして少女は景麒から離れた。歩けない彼女を使令に乗せて運ばせるわけにもいかず、かといって陽子が背負うと言うのを景麒が許すはずもなく、結局は景麒が抱えて歩いてきた。少女を家まで送り、再び彼女と彼女の兄らしき青年と共に宿へとやってきた。御礼をしたいと追いすがる兄妹に困りつつも断固として受け取らずに流した。変わりにまた彼らの家に遊びに来て欲しいという誘いに陽子は嬉しく思い頷いた。少女とその兄は帰っていった。
「すぐにお部屋を用意します。少しお待ちください」
宿の店主が気さくな笑顔で手をすりあわせて、奥に引っ込んでいったのを見て陽子はほっと一息つく。先ほどから一言も喋らない僕を仰ぎ見た。
「景麒、疲れたか?悪かったな」
それほど長い距離ではなかったが、人一人を抱えて歩けば疲れるし手も痺れるだろう。慈悲の獣である景麒は人助けだと思い不満を漏らさないが、陽子は細くひ弱そうなこの麒麟に無理をさせてしまったのでは、と反省していた。
「あの程度で疲れるはずが御座いません」
「なら良かった。延王は麒麟をこき使ってもいいとおっしゃっていたが、こういう使い方は許されるらしいな」
延王、という言葉を聞いた途端、景麒の柳眉が逆立って、陽子は驚く。
そこまで嫌な顔をすることはないのでは、と苦笑する。己を軽んじられたことが気に触ったのだと陽子は思った。
「延王の影響をお受けになるのは、やめて頂きたい」
「あの方は立派な人だ。見習うところは見習いたい」
「だからといって、今後このようなことが続くのはお止めいただきたいと言っている。軽々しく身を危険に晒すようなことを、武術の心得が浅い主上がなされるのはもってのほかです。まして延王のように」
陽子は凛々しい目元に手を添え、瞼を閉じる。
「――なんだ。やけに延王に絡むな。栄可館でもそういう話を持ち出してきたし。そんなに私があの人に頼りきってると思っているのか?見習うくらいいいだろう」
「―――そうではなく」
景麒は顔を背けて口ごもった。陽子も深く追求するほど興味はなかったので(疲れてもいたので)そのままその話は終わった。 店主が再び現れて部屋を案内する。先に景麒が大金を店主に渡していたので一番良い部屋を主に宛った。客房を二室、隣合わせで取ってあり、陽子の部屋は質素ではあるがさすがに綺麗で準備が整っていた。



夜中陽子の部屋で、陽子は遠甫に教わった慶の中枢の事情を補うため景麒の持つ、最新の情報と知識を教わっていた。未だ複雑なパズルは一枚の絵になることはないが、登極当初よりは随分飲み込みやすくなったのは、構造の基本を抑えたからだろう。
「主上、やはり、一度宮にお帰りになりませんか」
真剣な顔はいつもよりやや蒼白に見えた。
「どうして?もう少しで明郭につくというのにいまさら…」
「危険な気がしてなりません、―――どうかお帰りを」
「ならばお前一人で帰るんだ」
「主上…」
この話はもう終わりだ、とばかりに陽子は手元に広げた地図を注視した。憮然とした顔で景麒は朱髪をみやるが、陽子は一切構わず放っておく。金波宮に帰るよう促すのはいつものことだったが、今回はより切実な思いが含まれていた。
「―――、拓鋒から明郭へ、―――景麒、聞いてるか?」
陽子は膝の上に肘を立てて手に顔をのせた。景麒は白い手を拳にして膝に押しつけるように握りしめていた。陽子は軽く驚く。
「主上が帰られないのなら、私もここにおります」
「…べつに、いいけど……何を、怒ってる…?」
薄い紫の双瞳が揺れて、すぐに主へと視点が定まる。景麒は胸に湧くいくつもの感情を抑えきれない。

どうしてこの方は自身をかえりみず、他人を助けようとするんだろうか。他人(ひと)を庇い護ることを望み、己に厳しい。これが彼女だということは判った。だが、景麒の内情は恐怖感にいつも揺れている、―――

「私は主上の下僕、決して御命令に背かない。ですが、主上の言い分を承諾していたら、主の命がいくらあっても足りないのです。―――主上は御身を軽んじ過ぎる」
「そうはいってもな…状況が状況だ。このまま何も知らず、放っておくわけにもいかないんだ、ここで帰ったら逃げ出すことと同じだ」
景麒の真意を読みとれず、陽子は怪訝な顔で僕を見つめる。珍しくも、景麒は視線を逸らすことはなかった。
「………私は、主上を信じております。ですが主上は私を信頼しておいでか?私の言うことを一つも聞いてくださらない」
「――」
「信じようとしておられることは知っておりますが………ですが、それは今、私しか側にいないからでしょう。主上の半身であるのに、私は、隣国の王や宰輔に負けていると自負しています」
陽子は目を見張る。
「主上は私をお疑いであられるのでしょう………たしかに先の、―――延から官吏の派遣を招く、という話題。それを深く尋ねたことは軽率でした。お許しを」
「――――いや…」
「主上は延に多分にお心を砕かれておられる。先だって、延王君は私に、復興まで助力は惜しまないと仰っておりましたので、もしやと邪推致しました。主上がそのような方ではないことは今まで見ていれば判ったものを、―――私がどうかしていました」
まさかそんなふうに思っていたとは気づきもしなかった。
「ですが、せめて、延帝よりも私を頼っていただきたい」
「―――私は、延王にそういった助力を求めようとは思わない。これは私の問題なのだから」
「軍事的、政治的なことではなく、心の問題です」
呆然としながらも、陽子も思索の上、言う。
「…金波宮で、お前以外頼る者がいない。お前しかいないのに、信じなくてどうするというんだ。お前は麒麟だし、あんまり嘘をつけるとも思えないし…」
「それが言い訳ではないといいきれましょうか」
図星だと、漠然と、景麒の言葉で認識させられて陽子は息詰まる。
「こう言えばお分かりですか? 今のあなたに私以外信ずる者がいないように、―――私もあなたしかいないのです」
陽子ははっとした。
「どうしてわたしを信じていただけないのでしょうか」
陽子に今景麒しかいないように、景麒にも陽子しかいない。
むしろ景麒にとっては、重い足枷を持った己が縋れるのは主しかいない、そういった切実な状況なのだ。生真面目で頑なな彼は、絶対に気弱な素振りを見せることはないが、景麒はいつも陽子に救いを求めているのかもしれない。陽子が気付かないだけで。

この麒麟は、一人だった、再び主と出会えてからも、―――。

「…悪い、私は、いつも自分のことばかりで…お前の気も考えずに」
これ以上民に苦労をさせたくないと、民を護るために麒麟を護っていかねばならないと、それだけを思って暗闇の中、無我夢中で足場を探っていた。一人で迷走していた。景麒を振り返ることなく。

「すまなかった」
いえ、と景麒は首を振る。その貌はいくらか穏やかに見えた。
「すぐにとは申しません。追々でよろしいのですから」
陽子は思う。
簡単に人を頼ったり、信用したりできる性格ではない。たしかに景麒は唯一の半身だが、政治的な彼の言動を信じたことはまだない。これを期とばかりに己の麒麟を信用するという器用な真似もできない。 深々、受け入れることができるのはまだ先のことだ。

だが、反面、この麒麟の痛みを少しでも分け知りたいと思う。哀れな麒麟、その冷たく凍った相貌に少しでも、幸福が宿ればいいと。麒麟の肩にかかる重圧を変わりに背負うことは今の陽子には出来ないが、今、できないだけだ。そして、今、できることがある。
「……わかった。帰れとは言わない。しばらくは一緒に居てくれ」
「御意に」
景麒は深く頭を垂れた。白金の鬣がさらりと流れた。




その後、景王は和州の乱を自ら率先して起こし、冢宰ー太宰に転じていたがーの靖共、呀峰、昇紘らを捕らえ、金波宮へ帰還した。景王の手に、久しぶりの充足感といくつかの貴重な人材、そして国の方向性を示唆する志が手に入った。この5日後、奇抜な初勅を打ち出し、十二国中にその名を轟かせることとなるが、それは別の話である。
朝臣は官僚の逮捕に相当に慌て、朝廷は荒れる。しばらくは油断のできない状況になると、麦州候浩瀚は陽子に告げる。浩瀚という男を陽子は全面的に信用した。彼の人となりや評判、今回の乱での働きからも、信頼に足る人物であるからだ。ただ、陽子は最後まで景麒が浩瀚を庇っていたことに、信を置いた節もあった。
景麒は牀榻に横たわり、幾分か血色のよくなった白い端正な貌を天幕に向けていた。未だ、寝所に伏せており、戦地に赴いた者は面会できなかったが、数日後、仁重殿に客がやってきた。景麒には、それが誰かはすぐに知れる。 扉の外で女官と二、三言葉を交わし、扉は開く。黒の簡素な男物の官服に身をつつんだ主。面倒だったのか、紅い髪は自然に肩に流れ、余計な装飾ひとつない。少年のようなその姿は、見るたびに凛々しく美麗になってゆく。
最後に主を見たのは和州の戦場だったか、と景麒は思う。

「気分はどうだ」
陽子は一歩踏み出してから立ち止まる。身に染みついた血の臭いや怨嗟を気にしているのだろう。必要以上に近寄らない。
「主上、……もう平気かと」
「そうか」
言うと、陽子はすたすたと躊躇いなく景麒のいる牀台までやって来て、景麒の慌てる顔を見て微苦笑した。透くほど白い僕の顔を間近でじっと見つめると、思わずといったふうに安堵の息を吐いた。
景麒は居心地が悪くなり、視線を彷徨わせながら眉を寄せる。
「それよりも、主上。私がおらぬ間、しっかりと政務をなされましたか、いくら緊急事態だといえども、」
「おいおーい…せっかくの久々の挨拶がそれなのか?」
陽子は腹を抱えて声無く笑っている。気分を害したのか景麒はさらに眉間に皺を寄せて笑い転げる主を睨み黙り込む。陰険なオーラに陽子は引きつる頬を抑えて、ひとつ咳をする。
「ここで喧嘩しても仕方ない。それに、それでこそ景麒だしね」
「どういう意味か…」
「あんまり怒るな。頭に血が上って倒れられたらたまらないしな」
少し思案して、陽子はくしゃりと顔を歪めた。
「――――怒ってるか?」
景麒はむっつりと黙している。
「景麒」
「―怒りますとも。あれだけのことをなさったのですから」
沢山の民の血が流れた。身を斬られるような痛みと悲しみを、麒麟は受けた。
「うん――――なんなら殴ってくれてもかまわない」
「――――」
「叩けないなら、恨んでくれてもかまわない。それも道理のような気がする」
景麒は主を見た。
「――――呆れた方だ」
大真面目に言って目を堅く伏せた主に、景麒は紅色の髪をねめつけて、ため息ま じりに言う。

「もう、よろしい…」
陽子は弱く苦笑した。

「そうか、―――それと景麒、改めて戦地に赴いてくれてありがとう」
陽子は座ったまま深く頭を下げた。景麒はぎょっとして牀台から身を起こそうとするが、気付いた陽子に止められる。主が僕に頭を下げることなど、景麒の意中に存在しない。
怒り出しかねない様に苦笑して陽子は胸の前で腕を組んだ。
「それと、使令に無茶をさせてしまった。彼らにはゆっくり休みをやってほしい。おまえも休むんだぞ、」
常に毅然とした色を持つ翡翠の瞳が悲しげに濁るのを景麒は目を細めて見やる。
「これほど酷い病にかかるとは思ってはいなかった。桂桂の時もそうだったというのに、私は思慮が足りないな。もう二度と戦地には向かわせないから、許してくれ」
「主上―――――」
「よくやってくれた、ありがとう」
「――私は何もできませんでした。すべては主上が起こし、なさったことです」
「お前はよくやった。私は知っている、お前の辛苦の一欠片かもしれないが。お前がひとりでずっと苦しかったことを。重かっただろう」
景麒は驚いて身を強ばらせた。心の芯を突然触れられた衝動に、息を止めた。
苦しかったなどとは、言えなかった。 麒麟は天意の器だと理論付けて、辛苦を己自身からも、ひたすら隠してきたというのに、―――
―――己の混沌を暴かれていた。
陽子は神妙に、思惑の内を、語り出す。
「正直、お前の上にのし掛かっていた重みを、支えられる自信がなかった」
景麒は目を見開く。
「わたしは自分を信じてはいないから。愚かな自分がどれだけやれるのか、成す事に確信が掴めなかった。 一人では不可能だったんだ。だけど、今は信じられる者を得た。お前も含めて、多くを、な」
「主上」と口を挟み、身を乗り出した景麒を押しとどめて、陽子は楽しげに続ける。
「麦州候浩瀚を冢宰に招く。景麒の言うとおり、出来た男だった。それから、遠甫に太師としておいでになってほしいと、 師として教えを請いたいと言ったら、了承を頂いた。あの方のおかげで、私は王というものが何たるか、ようやく理解できたと思っている。 あと、友達ができた。楽俊も友達だったが、今度は女の子なんだ…二人とも可愛い。 ……おまえさ、今私が女だってこと忘れていなかったか。―――まぁいいが、そんなわけで、 やっとこれから国を背負う準備が出来たというわけだな」
膝に腕をつき、僕を見上げるその容貌は、毅然として尚かつ迷いがない。
「遠回りをしてしまった。不甲斐ない王だが、―――景麒、私についてくるか」
言って、く、と口角を上げた主は、ことのほか凛々しく自律的で、翡翠の暖かみは、慈悲を持つ麒麟にすら眩しいほどの慈愛が溢れていた。
「主上―――」
景麒は主の長丈の袖を握りしめていた。白い形の良い手に力を込める。
水面のようにゆらゆらと凪ぐ深い薄紫。呼吸も忘れて食い入るほど主を見つめる双眸に、 陽子は一瞬、この堅苦しくも感情を見せない麒麟から、少しだけ、賭け値無しの忠誠をみた。誓約を交わしたが、こんな真っ直ぐな瞳で 見られたことは、今まではなかったのだ。
陽子が驚いて注視すると、すぐにその瞳は逸らされて、掻き消えてしまった ―――――
「―――なんだ、ちょっとは可愛いところあるんじゃないか」
「っ!? 主上!」
感動の時をかなぐり捨てて、怒りを露わに躯を振るわせる僕がおかしくて陽子はふ、と微苦笑した。
なんだか己の麒麟の扱い方を判ってきた今日この頃。
「早くみんなに元気な顔を見せてやらないとな。これから朝廷は荒れるだろうから、気をぬくなよ」
何かが乗り移ったかのように王の覇気をまとった凛々しい声。景麒は佇まいを正し、はい、と力強く頷いた。












2005/5/10
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送