空、水色









淀みの無い静かに響く、低めの声が心地よかった。陽子は、書類から目を外して 、窓越しの蒼空を眺めた。 雲海の上へ上へと拡がる高原はたちまち陽子の瞳を染め変える。 その空色と同じように、いっそ開放的な心持に塗り変える。
「主上、聴いておられますか」
男は微かに苦笑を交えて、陽子の視線を追うように外を眺める。それに気づいた 陽子は、男の端正な貌に少しだけ見惚れた。冷たい横顔に、仄かな穏健がちらついている。

日本では色づいた発色のある瞳の人間はいない。全てが漆黒の瞳を持った人種で、陽子も 麒麟に連れられこちらに来るまでは瞳は黒だった。

男の瞳は鮮やかな空色なのだ。 僅かばかりか、角度によって深い紺色が混じり、怜悧な切長の双鉾を魅惑に映し 出す。 だのに、まとめ上げられた髪は漆黒で、陽子にはそれが視覚に懐かしく、親しい色だったから、彼の近くでの生活は、堵に安んずるものだった。

男は元麦州候にて、現在、慶東国の冢宰となった、浩瀚というものだ。
冢宰として金波宮に務める彼は誰もが目を瞠るほど有能で、慶国に多大な貢献と働きを成している。午前は 朝議を順調穏静に仕切る役割もあり、多くの部下を抱える冢宰としての責は たとえ十年の間、日夜寝る間もなく勤めたとしても終りはしないだろう。その上、政務に不慣れな主の補佐を自ら買って出たのだ。 そうして不満を零すでもなく、私語、戯れ言すら洩らさず、黙々と主に尽している。
陽子は当初彼に会ったとき、此処まで彼が熱意ある男だとは思っていなかった。 それは、偽王に組せず果敢にも抵抗し、陽子が男を無実の罪で罷免後、お尋ね者になったにもかか わらず、飄々と和州に青を送り込んだほどの度胸の座った人物だ。培った精神力、一本筋を通しそこに途方もない熱意を込める性質なのだろう。それをそそぎ込む器が、国なのだ。

「主上、」
耳に届く賢い声。陽子は男から視線を外して短く、すまない、と素直に謝る。
誰もが忙殺する最中に、不甲斐ない景王のために文字を読み上げてくれたのに、己は上の 空で足を引っ張る出来の悪い人間で。陽子は軽く頭を振り、書面に囓りついた。
「…どうなされましたか?」
「いや、すまない。―――続けてくれ」
わかりました、と一呼吸して男は口を紡ぎつつ書面に空色の眼を滑らせた。 整った顔立ちと怜悧な雰囲気に、もっと冷たく付き合い難い人間かと思ったが、彼の持ちうる熱意は同じ志を持つものには暖かく頼もしく、――――国を民を愛する陽子にとっても、男は頼もしい存在だった。

「――――というわけです。ご理解頂けましたでしょうか」
ああ、と簡素に言って陽子は微苦笑する。彼の声には計算し尽された形跡がいく つも垣間見えた。重点を置く箇所はそれとなく強調され、張りつめたり緩めたりの波が、陽子のすでに水を吸い込みきったスポンジのような頭にも、するりと容易に入ってくる。
「浩瀚は説明も上手いが、朗読も最高だな」
仕事にはいい加減うんざりすることもあるが、彼の声はずっと聴いていたいほど耳に心地よいものだった。
「御誉めに預かりまして、光栄で御座います」
す、と空色の双鉾がゆったりと揺れる。
「まさか先程心此処にあらず、といった御顔で私を見ておられましたのは、もしや聞き惚れていらしたからでしょうか」
ゆっくりと微笑を浮かべた男に陽子は面食らって、睫をしばたかせた。
「浩瀚でも、そんな冗談言うんだな」
仕事以外では特にこれといった私語がなかっただけに、意外でもあり、新たな一面が嬉しかったりもする。
顎を組んだ手の上に乗せ、陽子はくつくつと笑う。
「正直、聞き惚れていたし、見惚れてもいた」
声も心地良いし、空色と漆黒のアンバランスな調和が、陽子には小さい感動でもあった。
「冢宰の目に空を見て、黒髪に故郷を思い出していた。どちらも私の好きな色な んだ」
男は微笑を崩して陽子の座る卓子に小幅程度静かに近づいて、書類をそこに置く。 風に飛ばされぬよう押さえながら、同じように垂らした赤い髪を押さえている陽 子を見る。
「主上は、天然でいらっしゃる」
く、と声を上げ、控え目に笑い出した冢宰に、再 び陽子は面食らう。よもや、このすました男が笑い声を上げるとは。また新たな
一面を見ることが出来て嬉しいが、笑われる意味が解せない。
「なにが楽しいんだ」
「いいえ、主上の側仕えの女官が次々に回転する意味が、なんとなくわかりました」
「どういうことだ」
「いいえ、大したことではございませんから、お気になさいませんよう」
張り付けたような微笑で断ぜられたら、陽子はこの男にはいつも敵わなかった。
「ですが、政務中、惚けられたのは感心致しません。主上にはご褒美として今 日中にこの書類を片していただきましょう」
積み上げられた紙束は天を突きそうなほどで、陽子は頭を抱えて唸る。
「私を殺す気か?」
「ですから、ご褒美だと」
恨みがましく指の合間からねめつけても、大して動じたふうもない。こうなった ら、冢宰には敵わない。
陽子は諦め、墨を削りだす。
「浩瀚は飴と鞭を知っているな。優しくしてくれたと思えば、こんなふうに 意地悪をする」
男は静かに笑って、持ち帰る書類を整理する。
「上に立つ者の嗜(たしな)みです。主上にもいずれか手法を学んで頂かねばなりま せん。飴は心得がおありなようですが」
言って透くような空色の瞳は瞼の内に隠され、男は恭しく立礼をして、去ってい った。
見送って、陽子は窓口を眺めた。
空の瞳と故郷の黒と、漠然とした、己と寄りそう志。言に尽し難い国への熱。
男は慶国にとっての、父のようであると、陽子は思った。











2005/5/10
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